【雑記】中島みゆき「心音/有謬の者共」

2023年9月13日発売の中島みゆきさんのシングルCD、「心音/有謬の者共」(しんおん/うびゅうのものども)を買いました。このブログを書いているのは10月下旬です。普段は「心音」をYoutubeで聴いていたのですが、「有謬の者共」がYoutubeで公開されたときに、もうちょっといい音でリピートして聴きたくなりました。Amazonの特典であるメガジャケがなくなる前にと思い、急いでCDを購入したという次第です。ポスターを貼るのがためらわれる年齢の私にとって、Amazonのメガジャケはうれしい特典です。ジャケットの絵は宣伝に使われているものだったこともあって、新たな感激はありませんでした。しかし、CDを紙ケースから取り出したあと、CDのポリカーボネートの面に描かれているイラストの美しさにはっとし、縦書きの楽曲名にこだわりを感じました。手に取りたくなるCDといったところです。

 このCDに収録されている楽曲は、『アリスとテレスのまぼろし工場』というアニメーション映画の主題歌として制作されたものです。この映画はMAPPAというアニメ制作会社の初オリジナル作品です。MAPPAという制作会社は、「この世界の片隅に(2016年)」というアニメーション作品で名が知られるようになった会社です。とても丁寧な作りをする制作会社というのが私の印象です。原作・脚本・監督は岡田麿里さん。機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ (2015年) という、ガンダムシリーズの中でも、記憶に残る作品を手掛けられた方です。

 映画の内容を雑駁に紹介すると、製鉄所の事故によって、ある街全体が閉じられた空間となってしまいます。物理的にも社会システム的にもおかしくなってしまった街で生きる人たちの人間模様を描いた作品です。おかしいと思ったら、疑問をもったら、そのまま踊らされるのではなく、各人が信じる方向を大事にしなさいというのが、作品が描こうとしている大まかな内容でしょうか。「心音」を聞きなさい、というわけです。こだわって描かれている、美しいシーンがいくつもあり、純文学に類するアニメーション作品だなあというのが見終わった直後の私の感想です。セカイ系とはちょっと違うように思います。最後のカーチェイスは冗長だったなと思わなくはないしですが、全体に記憶に残る良い作品でした。映画では、閉じられた街にいる主人公と、その外にある正常な現実世界の主人公がだぶって現れます。この作品を考えるときのポイントは、この辺にありそうです。

 さて、この「心音」という楽曲は、映画の本編が終わってから流れます。まるで映画の内容をかみしめて下さいと訴えかけてくるように流れてきます。「味方だろうか、悪意だろうか」は「味方と敵」ではなく「味方と悪意」で対比させ、「でも聞こえてしまったんだ/僕の中の心音」に続き、「僕は本当の僕へと 祈りのように叫ぶだろう」と、「本当の僕」という言葉が、ストーリーとつながるようにも、独立したようにも聞こえる歌詞につながっていきます。映画の内容を引き締めてくれる歌詞と楽曲、歌唱です。

 「有謬の者共」は、タイアップ曲としてCDに収録されており、劇中では流れませんでした。「有謬」という言葉は中島みゆきさんの造語かもしれません。しかし、「無謬」が「誤りのないこと」という意味ですから、その反対ということは容易に分かります。この曲の歌詞にある「間違うのがニンゲン」というフレーズは、映画の作中で、皆を間違った方向に導いた佐上衛というキャラクターのことを表現したのでしょう。作中では悪役扱いですが、彼がとった行動は、悪い方向へ導こうと思っての行動ではありません。映画の中で対立軸となった双方の立場にコメントしようとする、やさしい考えの楽曲のペアとなっています。

 映画の興行収入は上がっていないようですが、作品のクオリティは高いです。ブルーレイが出たら買うと思います。

 以上が映画を見てから、映画の主題歌という内容に即した「心音」の感想です。ここから、映画からは少し距離をおいたとき、と言いますか、映画を見る前にYoutubeで公開されていたときに聞いたこの歌についての感想です。

 「味方だろうか、悪意だろうか」というところの対比にまず気づきます。昔読んだ本に、批判的なことを言われても、それが悪意なのかどうかは考えなければならないとあったのを思い出しました。さらには「ひりつく日々も、眩しい日々も、閉じ込める夜」と、悪意の可能性、悪意でない可能性、疑うことへのある種の怖れを抱きながら、「誰も触れない、誰も問わない、時は進まない」という具合に、周囲が黙っているのでとりあえず黙っておいて流されていっている現状への認識を嘆息します。これは現代的な集団心理です。何か主張すると攻撃されるかもしれないから、黙って集団に埋没しておこうというわけです。たとえそれが正しく、素晴らしい主張であっても、です。そこで主人公は「でも聞こえてしまったんだ/僕の中の心音」と、自らの中に沸き起こった違和感への答えを「心音」という言葉で反映させます。さらに、巧みに隠された悪意や、黙っておいて責任から逃れようとするこの立場を「綺麗で醜い嘘たちを」と表現し、「僕はここで抱き留めながら/僕は本当の僕へと/祈りのように叫ぶだろう」と続けます。ここで、「僕」は「本当の僕」との2人に分裂します。両者は同一の肉体をもつ者なのか。そして「未来へ/未来へ/君だけでゆけ」と、もう一人の「僕」に言うわけです。前者の「僕」は醜い嘘をその身に受けていずれ滅びるが、後者の「僕」は醜い嘘が取り払われた未来へ進みなさい、ならば両者は別なのか?という疑問が湧きます。映画を見た後なら、「君」は「五実(いつみ)」のことだと思われますが、歌詞だけ見ればどうなのでしょう。

 現在、昭和に活躍した人たちが次々にこの世を去るという形で、昭和が消え去っていっています。さまざまな軛が外されつつあります。昭和世代には、現在の社会を作った功績もありますが、あまりにも大きな多くの問題点を後の世代に残置しようとしていることも事実です。年配の方々の中には、今の日本が豊かなのは誰のおかげだ、と主張する方もおられますが、さまざまな問題点を整理してからこの世を去りたいと思っておられる方もいます。中島みゆきさんについては、アルバム「組曲」の「空がある限り」あたりから、嘆きというよりも訴えが明確に感じられるようになったと思います。「心音」の歌詞に返ります。2番の歌詞では「ほころびつつある世界の/瀬戸際で愛を振り絞り」「僕は現実の僕へと/願いのように叫ぶだろう」となっています。「僕」と「現実の僕」に分裂しています。やはり、この楽曲、ひいては映画を感じるためには、二人の「僕」は同一の「僕」なのかを、考える必要があります。興味深い歌詞です。